上級/第118回『臆病者~Coward~』 前原雄大
2017年02月23日
つい先日、鳳凰戦の二日目に解説者である荒正義さんが、私をチキンハートと称した。
「前ちゃんは、負けたりすると1人になりたがる、電車の中でも考え続けたことだろう__。」
翌日荒さんから、その言葉を選んだことへの叮嚀な詫びの電話を頂いた。
その辺りの気配りは、さすが荒さんだと思った。
話は少し飛ぶが
「やはり、レジェンドと言えばボクにとっては、小島武夫さん、灘麻太郎さん、そして、森山茂和さん、荒さんあたりになります」
「いや、前ちゃんもそうだし、沢崎誠、瀬戸熊、藤崎、前田辺りもそうだよ」
何か違うような気がするのは私だけだろうか__。
話を戻すと私は自分自身を鑑みるとやはり、臆病者だと考える。
ひとつには、タイトル戦の決勝などを控えた時に、数か月前から相手を想定したかなりの量の稽古を積む。
何故か、それは決勝戦そのものが怖いからである。
勝ち負けもあるが、ちゃんとその舞台で踊れるか不安なのである。
怖い、と言うことはやはり臆病者の証しなんだろう
スタジオが出来る前までは、メールを飛ばせば7、8人はすぐ集まった。
ところが、今は皆忙しくなかなかに難しくなっている。
仕方がないので、フリー雀荘に飛び込んだり、1時間ほど手が空けばセット雀荘に飛び込みツモ捨て{モータ}を繰り返す。
そうしたくてしているわけではなく、そうしないと不安に襲われるからそうしているだけである。
1つには尊敬してやまない恩師の言葉の存在も大きい。
「どの競技であれ、戦うということの裏側には臆病であることは、私は必要だと考えている」
もう30年ほど昔に伺った言葉だが忘れたことは無い。
また、生来の気質もあるようにも考える。
麻雀プロに成りたてのころ、最初に手を染めたのが北抜きという三人麻雀である。
毎日そこには通ったが、初めて手を降ろしたのは通い詰めて半年後の事だった。
その半年の間何をしていたかと言うと観戦していただけのことである。
観戦して、家路につきながら、ずっと如何にすれば戦えるかを考えることは楽しい。
10年ほど前佐々木寿人さんに北抜きを教えた。
「わかりました。とにかく、やりましょう」
さすがだナ__
正直そう思った。
おそらく、彼は生まれついての戦闘民族なのだろう。
血液型などというモノをあまり信じないが、O型は戦闘タイプという説があるがそうかもしれない。
ちなみに近藤久春さんにある時尋ねた。
「近藤さんはA型でしょ?」
「そうなんですよ、AAではないのですが、ABなんですよ」
不思議なもので血液型は信じないが、ほとんど外したことがない。
古川孝次さんにも訊いた記憶があるが忘れた。
ただ覚えているのは、
「僕は南米の血が流れていると思っています」
この自由すぎる言葉は覚えている。
私自身は結婚して子供を授かるまでは、ずっと0型と思い込んでいた。廻りもそう言っていたせいかもしれない。
しかし、調べてみたら違うことが分かった。
このことは、いかに自分自身のことは解らないものだと、当時つくづく思わされた。
父親が0型だったためであり、母親がA型だったためでもある。
以前にも記したことだが、
「男ならば勝たねばならない」
父親にはそう躾けられ
「勝っても負けてもどちらでも良いのよ」
母親にはそう育てられた。
私は両親の言葉で叱られた記憶はほとんどない。父親は言葉ではなくすぐゲンコツが飛んできた。
そんな父親から言葉で叱られたのは、生家を訪ねたおり、断りなく煙草を呑んだときである。
「親に失礼しますの一言もなく煙草を吸って良いと思っているのか!」
母親には競技カルタでクラスは低かったが、優勝したときにささやかな祝いの場で、
「おめでとうございます」
宴の後
「貴方の言葉は嬉しいけれど、私は優勝するためにカルタをやっているわけではないの。そのことだけは覚えていてね。」
柔らかい口調だったが叱られた記憶が鮮明にチャコールグレイの写真のように今でも私の脳裏に焼き付いている。
当時は良く解らなかったが、今は両親の言葉の意味がおぼろげだが解るような気がする。
今回の鳳凰戦のプロモーションビデオで、かなりの量の言葉を発したのだが、多分使われないと思い発した言葉が使われた。
「通じない{使われない}と思うが鳳凰は大切なものだと思っている。ただ、鳳凰を獲る為に麻雀をやっているわけではない」
まさか、使われるとは思っていなかった。しかし、本音である。
今思うと両親の遺伝子が言わせた言葉かもしれない。
このコラムをお読みの方々に強くなる方法に関して言えることがある。
自分のルーツ環境に即した麻雀を見つめながら、原風景を知りながら、自分に似合う麻雀を打って行けば自ずと自分の目指す麻雀のカタチが見えて来るということだけである。
私に照らし合わせて言えば、良い時は何処までも攻め込む。悪い時は何処までも嵐が去るまで我慢する。
攻めと受けだけである。
余計なことはしないし、考えない。アシストもしないし、犠打もしない。
オリではなく、受けと記したのはオリを頭に描くと気持ちも手牌もオリに向かってしまうように思えてならない。
常に攻撃の機会を逃さないように麻雀を打って行きたい。
不器用かも知れないが、その不器用さを武器に闘って行きたいということである。
そして、臆病であることは決して悪い事ではない。
臆病であればどこまでも反省するし、向上もして行くものだと考える。
ただ、度合というものもあるのだろう。
初めて鳳凰を戴冠した時に荒さんから言われた言葉を思い出した。
「勝った貴方が胸を張ってくれなくちゃ、負けたオレはどうしたら良いんだ!」
あの微笑みを持った叱りの言葉は勇気づけられた。
最近、気に入っている言葉がある。
走るために走るのか!
勝つために走るのか!
簡単そうで難しい言葉に思えてならない。
人生時計なるものを最近知った。
年齢を3で割った数字がその人の人生時計であるらしい。
私は最近60歳になった。つまりは、人生時計に照らし合わせると20時である。
残された時間はあと4時間しかないのである。
残された4時間を如何に生きるか、如何に麻雀を打って行けるか。
その為には身体を作り目一杯麻雀を打ち続けるしか無い様に考えている。
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