「60歳のとき(Sixty Years On)」 前原 雄大
2017年11月29日
この楽曲を作ったのはエルトンジョンであるが、私がこの曲を初めて聞いたのは、高校生の頃の澤田研二のリサイタルだった。
さらに記すならばほとんどの洋楽は彼の歌で知った。
高校生の私はそんな年齢まで生きてはいないだろう__そんな風に思っていた。
歌詞も難解で当時の私にはよく理解できなかった。今も理解できているわけではないが。
私自身は幼い頃から、かなりいい加減でそのかわり様々な人に影響されやすい若者だったように思える。
良く記せば素直であり、悪く記せば自分を持っていないということである。
そんな澤田研二が60歳の時コンサートをやったのだが、80曲を歌い、ステージ上を走り続けていた。
本来は88曲の予定だったらしいが、会場の時間の都合で80曲に留めたらしい。
歌も素晴らしかったが、その体力には驚かされたことを今でも覚えている。
このステージを作り上げるためにどれほどの稽古とリハーサルを積んだことだろうか__。
もう数年程前であるが、私の名付け親のオフィスから電話が入った。
「本人は未だ何も書き残したモノはない。そう言っていますよ。そして、60歳になったら、倍の執筆量に臨むとも言っています」
チーフマネージャーの女性は電話越しに言ってくださった。
「なぜそれを私なぞに?」
「なぜかしらね」
それで電話が切れた。恩師は数々の文学賞を受賞されている。それでも、何も書き残したモノは無い、そうおっしゃっている。
当時でも400字の原稿用紙で、500枚から600枚書いていらした。私には考えられない量である。それを1000枚以上にするなんて、、、、。
やはり、澤田研二さんにしても恩師にしても特別な人のようにボンヤリと考えていいた。
時が過ぎるのは速いもので、私も60歳の時をむかえようとしていた。
先年のAリーグの最終節に私は挑戦権を失った。
悔しいと思う気持ちは全くなく、己の能力に呆れ果てただけである。
大体において悔しがるほどの何かを何もしてこなかったのだから当然である。
翌日から外での呑みはやめ、朝から散歩と称してウォーキングらしき事を始めた。
6月からはホットヨガを始めたのだが、このことは体調よりも心の在り方を学んだ。
自分が考えていたほど集中力は続かないことも学べた。
言葉を変えるならば集中力の養い方を学べた。
~配牌からのオリ~
ドラ
第一打に何を打つべきか、と言うことであるのだが普通ならば当たりか。良い、悪いは別にして私は打とした。
既に勝又健志さんのダブの仕掛けが入っており、勝又さんからはと打ち出されているのである。
第一打の選択とは言え序盤ではなく、中終盤と考えるべきだろう。も選択肢にはあったが、このをポンされるのは最悪である。
同様に、も打ち出せない。要は配牌に置いて手詰まりなのである。
を仕掛けられる恐れもあるのだが、マンズと字牌とソーズは候補には入れなかった。正確に記すならば入れられなかったのである。
いけると感じた時は何処までも行くが、いけないと感じたならば徹底的にオリを選択する。
そうやって何十年と麻雀と関わって来たし、これからもそうして生きていくつもりである。
近藤久春さんも見事なもので、勝又さんのテンパイ直前にを打ち出しているがテンパイと同時に再度つかまされたで手仕舞いをしている。
これも稽古の賜物かもしれない。
ダブの離し時は公式ルールではことのほかに難しい。やはり、センスのようなものが必要なのだろう。
私も幾度となく試みたがある一定の条件下以外では上手く行かない。
結論としては、私にはそのセンスが無いということなんだろう。
このアガリは偶然と捉える方もいるかと思うがそうではない。
このアガリは勝又健志さんのちから以外の何物でもない。
最近は勉強会の後も終わり次第誰とも飲食を共にすることなく家路に着きロン2の東南戦を1、2回やり風呂に入り眠りに就く。
眼が覚めたら外に出る。
時折、60歳なのだからもう良いだろう。心配して声を掛けてくださる外部の方もいる。大抵は黙っているか軽く頷くことにしている。
心の中ではそうは思っていない。60歳の時だからこそ、今、やらないでどうするんだ__。
それが、本音である。
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