戦術の系譜

戦術の系譜28 前原 雄大

~技術より人~

編集部より原稿の依頼を受けた。
戦術を交えたもので内容はお任せ致しますとのことである。

私の日々の麻雀の取り組み方や、暮らしぶりの中から思う事を綴って行きたいと。そして基本的には若い人たちに向けて発信して行きたいと思う。
麻雀は上手い下手で決まるわけでは無い。行き着くところは「技術よりも人」である。その部分をお伝えできればな__そう考え綴らせて頂く。

昨年思うところあって酒と煙草を止めた。両方苦労するかと思ったが、酒はその後一度も呑みたいと思う事さえなかった。
煙草は10日ほどかかった。しかも時折、煙草を吸っている夢を見て夢の中で後悔しているくらいだからなかなかに厄介だった。
しかし、今思えば何でもっと早く止めなかったのだろうとさえ思うのだから私は本当にいい加減な男である。

「煙草臭い、敷居をまたぐな」

生前、父親に言われた言葉を思い出す。現鳳凰位である佐々木寿人さんの言葉も思い出す。

「百害あって一利無し。なぜやめないのですか」

貴方のくだらないダジャレよりは人に迷惑はかけないだろう__。
心の中でつぶやいていた。

 

 

~何切る~

大体1時から3時に寝て7時前後に目が覚める。窓を全開にしてから、風呂に入る。
録画しておいたニュースを見てから前日打ったロン2を見直す。これは結構大切なことのように思う。

何でも同じだろうが、やりっぱなしは良くない。
レーテングに拘っているわけではないが、昨年3か月程で400近く落とした。
やはり体調の為なのか訳は分からないが今は少し上昇気配にある。

それから、いつもの定食屋に立ち寄りリアル麻雀に向かう。
10回ほどで切り上げるようにしているが、麻雀体力もかなり戻ったようである。
それを終えてコナミ麻雀格闘倶楽部に向かう。今は主に半荘をやり混んでいる。長時間やる時はTwitterに意味のない言葉を添えてコメントしている。

帰宅して、風呂に飛び込む。
それから、ロン2をやって後輩の配信を眺める。
その日は何切る問題がテーマだった。

 

100

 

ルールは連盟公式である。答えとして多かったのが打三索である。

ほんとかよ?正直な感想である。

本来、何切るは2シャンテン以上のもので、基本的には何を切らない方が良いかを問うものだと考える。
正しいかどうかは別で、私はそう捉えているということである。

ならば、私は三索だけは切らない。多分五万辺りに手がかかる。理想はツモ五索でリーチである。

三万四万五万二索三索三索四索五索三筒四筒五筒七筒七筒

皆、3万点に拘り過ぎのように思える。12ポイント加減方式ならばまずは素点のほうに目を向ける。聞くところに依ると18ポイント加減方式でやっている処もあるとか。
お断りしておくが、打三索を否定しているわけではない。打三索とする人数に驚かされただけである。

 

 

~それぞれの価値観~

 

100

 

100

 

100

 

これはプロクイーン最終回オーラスのもので、東城りおさんが優勝する条件は満貫のツモアガリである。

一万一万二万三万七万八万九万二索三索四索二筒三筒四筒

5巡目の仕上がりで勿論彼女はリーチを打った。同巡、二階堂瑠美さんは一発を消しに行った。
すると、彼女の思惑通りにスルリと本来の東城さんのアガリ牌である一万が下がった。ただし、三色ならずの安目一万である。
タラればを言っても意味がないが、タラればを考えることは麻雀を向上させることに繋がると思う。

それなりに短くはない麻雀人生において、巷の麻雀でも映像対局でも一発消しやハイテイずらしのチーをしたことがない。
それは、仕掛けずにツモられるのは相手の力。素直に相手の力を讃え、また稽古に励めば良いだけの事と考えるからだ。

逆に怖いのは、仕掛けたがためにツモられた時、その後相手に勢いを持って行かれることである。
4,100点以上離した条件のオーラスではすべてオリに向かっている。そして、それを逆転され優勝を逃した事は一度もない。

誤解を招くといけないので付け加えると、私はそうしているだけの事で他人がしている事を否定するつもりは毛頭無い。
それぞれの信じる道、価値観に殉ずれば良いと考える。

歴史は繰り返されると言うが、40年以上前、やはりそういう仕掛けが流行った時代があった。
話を戻すと、私が知りたかったのは東城さんの立場で、一発で一万をツモった時に、裏ドラ条件に掛けるか否かである。

ピンフ形の裏ドラの乗る確率は約30パーセントである。逆に言えば7割の優勝確率を逃すということである。
ただ、難しいのは一発ツモは勢いとも捉えられる。勢いがあれば裏ドラも乗るのかも。そういう考え方もある。

この事もすべては仮定の話である。仮に一万でアガらないとその数巡先には四万が眠っていた。

そう考えて行くと麻雀は本当に包容力のあるゲームだと感心してしまう。
正解が無いものだと考え、真剣みを帯びた稽古を積み重ねるしかないのである。

しかし、その稽古量が、ある意味その苦労が麻雀とは何か?ファンとは何か?
最後に自分の麻雀とは何か?と言う命題に1人で立ち向かわせるのである。