上級

上級/第75回『稽古』

__どうしたら麻雀が強くなるのでしょうか?
もう20年以上も前の、冬の夜中のことである。
かなりの時間、麻雀を打ち終えた後、少しだけ呑もうとIさんの言葉に従い、当時、下戸に近い私と2人、新宿の酒場に立ち寄り、しばらく飲んだ頃、私はほぼ酩酊状態になってこう尋ねた。
「それを考え続けて行くことが、お前たちの仕事だろう」
しばらくの沈黙の時が流れた。私は自分の言った言葉に後悔していた。
私の後悔の思いが表情に出ていたのかもしれない。
「今、何時ごろだ?」
「もうすぐ4時です」
「少し、私に付き合ってくれないか」
「はい」
新宿駅に向かい、Iさんは2人分の切符を買い、1枚を渡してくれた。
そして、茨木か群馬のとある駅でおり、しばらくの間歩き続け、ある陸橋の上で2人立っていた。
まだ、太陽が昇ったかどうかの頃合いで、酔いも醒め、寒かった記憶があるから冬だったのだろう。
道の向こう側から1台の自転車が、私には信じられないようなスピードで、私達の立っている陸橋を通り過ぎ彼方へ飛んで行った。
「じゃあ、帰ろう」
そう言うと、Iさんは来た道をまた戻り始めた。
Iさんが何を見せたかったのか、何を教えたかったのか私には良く解らなかった。
帰りすがら私は尋ねた。
「知り合いの方ですか?」
「贔屓にしている競輪の選手だ」
「毎日、皆、選手は走る練習をするのですか?」
「それは人それぞれだろう、走る距離も、1日100キロ以上走る選手もいれば、走らない選手もいる。練習のメニューも選手それぞれ違うだろう。」
私は競輪という競技を全く知らなかったし、今も知らない。
「怠けようと思えばいくらでもできる。全ては己次第だ」
「どの世界も同じことだろう。資質には差があれど、強い選手、強い人間など存在しないように思う。強くあろうとする人間と、たいしたこともせずに、強くなりたがる人間の2種類しかいないように思う。」
遠い昔のことだから、正確な言葉ではないが、Iさんの言葉に、私は自分自身の問うた言葉、自分の在り方を恥じた。そして、私の問いに言葉だけではなく、何時間もかけ、この陸橋まで連れて来てくださったことに感謝したが、返す言葉が見つからなかった。私は結局、一言もお礼の言葉を返すことが出来なかった。
【稽古】
いつの頃か定かではないが、私は稽古という言葉を好んで使うようになった。それは多分、私の血筋の影響が大きいと考える。母親の系統に、囲碁、百人一首、将棋に関わる血が流れていることもあり、稽古という言葉に違和感がなかったのかもしれない。大雑把に記せば、過去を考え、今の正しさを知るという言葉の意味合いである。
「稽古」の「古」は、「古い、いにしえ」という意味であり、「口」は大切なものを収める箱、「十」は「干」で、その箱を護る「盾(たて)」。厳重に保管されている「何か」ということであり、そして、「稽」は「考える」という意味である。つまり「稽古」とはいにしえを考える、ただのプラクティスやレッスンやトレーニングとは違うということである。
麻雀というゲームは奥が深く面白い。一般の方々はその面白さを楽しめば良いと思う。
稽古などと考える必要もないように思える。
数年前、麻雀トライアスロンで、競輪界の伏見俊昭さんにお会いした時、
「練習は辛くないですか?」
この私の馬鹿げた問いに、
「我々にとっては練習が仕事ですから」
さり気無く答えてくれた言葉は重かった。
 
第27期鳳凰位決定戦 二日目観戦記より
http://archive.ma-jan.or.jp/title_fight/houousen_27_2.php

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『1日目終了後の深夜、宿泊先のホテルに戻り取材ノートをまとめながら原稿の準備をしていると、突然携帯が鳴った。着信を見ると前原からの電話。急いで電話に出ると開口一番、
「瀬戸クンの一筒はすごいよ!」
「あの一筒を見ると、やっぱり稽古を積んでいるんだなぁって感じるよね。」
誤解の無いように記しておくと、対局者には1日の対局の終了後、観戦記用にコメントをもらう段取りとなっていた。
しかし前原からはコメントをもらえず、「後程連絡をする。」との事。それが冒頭の言葉である。
鳳凰位決定戦を終えた打ち上げの席での一コマ。
「あの一筒で山井さんを超えたよね。(笑)」とは、瀬戸熊談。
攻撃力が強く、勝負となれば何でも切っていく山井の攻撃力を越えたという意味のコメントである。
冒頭の前原の言葉は、もちろん瀬戸熊の牌姿を確認することなく発したものである。
前原にはどのような牌姿から放たれた一筒なのかはわからないが、瀬戸熊が間違いなく放銃を覚悟してのモノだったに違いない。
放銃を恐れない瀬戸熊のその姿勢に、前原は賛辞を送ったのである。
鳳凰位決定戦開始前のコメントで、前原は私にこう語っている。
「麻雀の本質とはぶつかり合うこと。」そして、
「放銃すべき手はきちんと放銃しようと、心に決めている。」
それは、前原自身がやらねばならないことを瀬戸熊が実践したのだということ。
前原から瀬戸熊が学んだことを、実際の対局で、それも鳳凰位決定戦というプロ連盟最高峰の戦いの場で、
しかも前原相手に打ち切ってくれたことが、前原にとっては嬉しかったのだろう。
牌姿を目にしたら、どう感じるかはわからない。結果だけで言えば、放銃をしていい局面など限られている。
それでも前原が、この放銃に賛辞を贈るのは、前原自身の言葉を借りれば、
「リーグ戦でもタイトル戦でも、ゴールに向けての最善手を打っている。一局単位の最善手をもとめないんだ
ということなんだろう。』
と、望月は記している。
この打一筒の局面に関しては、何度か書こうと考えていたが、こちらがわの筆力の問題で、上手く読んだ方々に伝わるか不安もあり、しばらくの間、冷静に観られるまで記すのは辞めていた。
瀬戸熊直樹はタイトル戦に向けて、走り込みをし、食事制限もし、あらゆる場面をシミュレートする。
これが稽古の本質だと私は捉えている。そのシミュレートの中に、こういう場面も想定の中に入っていたのだろう。この一筒は、確かに誰も打たない、もしくは打てない牌ではある。9割方放銃を避けられない場面である。
それでも瀬戸熊が、打一筒としたのは、僅かに残された可能性に掛ける気持ちよりも、ここで放銃しても悪い結果にはならないだろうとの確信があったものだろう。実際、瀬戸熊はこの半荘もトップを取り切っている。
私はこの点棒の横移動でショックを受け平常心を失われていく。
心技体という言葉があるが、心が乱されてしまったら、そう勝てるものではない。
この打一筒が、正しい一打かと問われれば疑問だが、間違いなく素晴らしい一打であることは間違いないと私は思う。磨くべきは、技術や肉体はもちろんのことだが、稽古の在り方を磨くべきではないだろうか。